長編

□第一章『噂』
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 秀麗はその噂を、例の冗官室で聞いた。
「なー、紅姫、聞いた聞いた?」
 ひとりの元冗官がダラダラと秀麗の近くに身を引きずってきた。
 秀麗は要望どおり、御史台に配属された後も冗官室に時おり顔を出していた。だらしない元冗官に溜息をつき、
「何の話?」
「主上がさぁ」
 ピタリと秀麗の手が止まった。
「姫を娶るんだってさ」
 ピクリとも動かない秀麗の顔を元冗官が覗き込む。
「ん? 紅姫、どしたの?」
 秀麗はハッとして息を懸命に吸った。
「いいいいいいえ、な、なんでもないわよ。ただ、ちょっと、驚いちゃって。あんなにうーさまから逃げていらしたのに」
「だよなー」
「やっぱさ、王の妃ってったら、相当の美人だよな」
(十人前で悪かったわねっ)
「ちくしょう、うらやましいぜ」
「そーだそーだ」
「ってゆーかさ、主上って、男色家じゃなかったのかよ」
「え? ナニナニ?」
 冗官室は盛り上がる。
(なんだってみんなこんな話ばかりなのよ……)
 といつもの秀麗ならば思うが、今回ばかりはそうも言っていられない。
 だが、「紅貴妃」の存在が知られていないとわかると、秀麗は安心した。
「ねえ、タンタンは知ってたの?」
 傍らの蘇芳に振ると、蘇芳は例のようにタラタラと答えた。
「ん? まーな。ちょっとばかし」
「もう、教えてくれたっていいじゃない」
 秀麗はふくれた。
「あ、やっぱ? 紅姫もキョーミある?」
「まあね。一応、お国の大事だし。大体どういう噂なの?」
「俺たちも詳しくは知らねーけどさ、あの主上が、女人を後宮に迎えるらしい。実は后妃の有力候補がいるらしいけど、未詳」
「へ、へぇ〜〜」
 秀麗の片頬が引きつった。有力候補という言葉が引っかかる。
「こんな話もあるぞ。姫を複数人入れるとか」
「複数人って?」
「だから、王様だもんな。何人でも妻持てるだろ?」
「そっか……そういうものなのよね……」
「やっぱ女としたらヤダ? そういうの」
「んー、個人的にはひとりだけを愛してほしいけど、王様じゃ、仕方ないんじゃない?」
 複数人娶るのなら、きっと秀麗の名前はないだろう。劉輝がそのようなことをするはずがない。そう思い、秀麗はちょっと笑った。
 寂しくはあった。何か、胸の中がぽっかりとしたかんじ。
 今までさんざん劉輝を突っぱねてきたけれど、その場所はとても居心地が良くて。たくさん困ったけど、それ以上に嬉しかったのだ。
 それも、もうおしまい。劉輝はきれいなお嫁さんと結婚して、私は――
「おーい、紅姫ー。何か気になることでもあんの?」
 秀麗はハッとした。こんなところでもの思いにふけっていてはいけない。
「そーいや、おじょーさん、主上と知り合いだったよなー」
 蘇芳の爆弾発言に、その場の誰もが凍りついた。
(そっそういえば……ニセガネの件で走り回ったとき、劉輝たちと出くわしちゃったんだっけ……)
 一拍のち、わっと冗官室が沸いた。
「マジでー!? わーすげー、なんでー!?」
(ダダ漏れ禁止!!)
 目で蘇芳を制し、秀麗は顔を引きつらせて懸命に笑んだ。
「こっ国試がね、殿試は王もいらっしゃる口頭試験だから。やっぱり女ひとりで目立ってたと思うし。それにね……ほら、茶州に赴任したときは、異例の人事だし、危険区域だったから、主上も気をつけて行けって直々におっしゃってくださったのよ」
「あ、そっか、『花』もらったんだっけなー。すげー」
 尊敬の眼差しに、秀麗は苦笑した。同じ尊敬でも、茅炎白酒を一気飲みしたと言ったときからしたら、だいぶ成長したものである。
「まだ、蕾だけどね」
 これ以上突っ込まれないことを祈りながら、秀麗は言った。
「なあ、主上って、どんな人? 賢君だってのは聞くけど」
「賢君……そうね。ちょっと変わったトコあるけど、確かに聡明だわね。打てば響く、というか。こっちが全然思っても見なかったこと言ったりね。それで……」
 秀麗はそっと目を閉じた。思いを秘める瞳が浮かぶ。
「……とても、優しい人。まっまあ、私もよくは知らないんだけどね」
「へー」
 戸を叩く音がしたのはそのときである。
 この冗官室で誰が!? と誰もが思い、近くの人が返事をする。
「どーぞー」
 ――と、そこから現れたのは……
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