長編
□第八章『陽動』
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……まさか、燕青まで来るとは。
絳攸は驚いていた。
燕青が何百人力なのはわかる。戦力的に見ても、秀麗のためにも。
他の者は攻撃に長けているが、燕青は護るほうでその力を発揮する。それが今の秀麗にとってはかなり救いになる。
そんなことはわかっている。だが絳攸は、今までに感じたことのない感覚に苛まれた。
駆け寄る秀麗、抱き上げる燕青、笑いあう二人、楽しそうに――。信頼や愛情が一目で見てわかる様子に、初めての思いが腹の底に渦巻く。
秀麗に触れるな――
出かかった言葉を留めたのは『鉄壁の理性』ではなく、秀麗の笑顔だった。見慣れない笑顔だ。
(俺は、秀麗にあんな笑顔をさせられるか?)
無理だと思った。秀麗が絳攸を見るときの目はとても強いが、あんな笑顔はない。
「愛されてるなー、姫さん」
聞こえてくる言葉は真実で。
(そうだ、秀麗は愛されている。たくさんの人に)
それは絳攸の自信を喪失させた。秀麗とともに支え合って生きていきたいと思った。秀麗を励ませたことで安心していた。だが秀麗の相手は、なにも絳攸でなくともかまわないのだ。一人でも秀麗は頑張れるのだから。
「でも姫さん安心した」
聞こえてきた声に絳攸はハッとする。
「え?」
燕青は秀麗に優しく微笑む。
「あんな話を聞いて、大好きな邵可さんが『黒狼』だって聞いて、姫さんが悲しまないはずないよな。事が事だけに誰に相談できるわけでもないし、静蘭に慰められても今回ばかりは辛いもんな。だから心配してたんだ。けど、姫さん今ちゃんと笑えるだろ? 姫さんがちゃんと笑えるときは、頑張れるって証拠だ。邵可さん、李侍郎さんをつけてくれたんだな」
急に話を振られて絳攸はドキッとしたが、はにかむように笑った秀麗を見て、別の意味でドキリとする。
「うん。……本当に感謝しています。ありがとうございます、絳攸様」
「あ、ああ……」
似合わずしどろもどろして、「俺もおまえの力になれてよかった」と言いそびれたと後悔したのは、後の話である。
「ところで燕青、これからどうするの?」
床に下ろされた秀麗が燕青を見上げると、燕青はポリポリと鬚をかいた。
「いやー、一応護衛だから府庫うろつかせてもらうことになると思う。姫さんの菜食べられないのは残念だけどな」
秀麗は安堵したように笑った。
「そうなの。安心だわ。ありがとう、燕青。落ち着いたらいくらでも食べさせてあげるわよ」
「さすが姫さんだぜ」
「絳攸様も、食べに来てくださいね」
笑った秀麗に、絳攸はやっとのことで頷いた。