和風中編
□わが背子を(連載中)
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<第一章 野分の夜>
――風が泣いている。
日が傾きかけた頃から強くなり始めた風は、いつのまにか大粒の涙を流している。
そんなに古くはないはずの斎宮(いつきのみや)御所には、それでもどこからか風が入り込み、書を読む皇女の灯を揺らして消した。
小さな悲鳴をあげる。杏菜(あざさ)は皇女の部屋の外で控える女官に命じて灯を取りに行かせた。その灯をまた杏菜が受け取り、皇女の紙燭に灯した。
「おそろしゅうございますね」
ひっそりといった杏菜に、皇女は小さく頷いた。
再び部屋の外が騒がしくなる。今度は人のたてる音だ。下仕えの女が走ってきたらしい。
「なんですか、騒々しい。こちらには斎宮さまがいらっしゃるのですよ」
部屋の外で控える女官が下女をたしなめる声がかすかに聞こえたが、すぐに驚きの声に変わった。その女官は、失礼いたします、と声をかけて部屋に入ってくる。その足音も平生よりずっと大きく、人のことは言えないと皇女は笑おうとしたが、その途中で表情が凍りつく。女官が杏菜にひそかに言ったひとつの言葉がもれ聞こえたのだ。
――大津皇子。
それが、その言葉だった。
「なんですって?」
女官が畏まって額づく。何と言ったの、と皇女が言い、申し上げなさい、と杏菜が言って、やっと女官は報せを口にした。
「嘘よ……嘘よ、そんな……」
女官が額を床にすりつけるのも知らず、皇女は立ち上がって部屋を出た。お待ちください、と杏菜声が追いかけてきたが、待てるはずがない。大津皇子が来ているというのだ。
本来、斎宮寮は許された者以外入ってはいけないから、大津皇子が来るはずがなかった。いや、それより。
「無事なの!?」
すぐ外に立っていた下女に皇女は詰め寄った。女は恐縮して返事が送れた。訊き返すのももどかしく、皇女は勢いに任せて歩を進める。
「ご無事だそうです」
追いかけてきた杏菜が皇女の耳にささやいた。鼓動を忘れていた皇女の胸は、その瞬間、一気に暴れだす。皇子は、あの悪夢のような噂から、本当に逃げおおせたのだろうか。
いつのまにか先に立っていた案内人に導かれるままに回廊を急ぎ、現れた観音開きの扉を皇女は開け放った。
「大津――!!」
最愛の弟、大津皇子はそこにいた。季節外れの炭櫃に手をかざしていて、そこだけが赤い。顔は夜闇に消えかかっていたが、懐かしい弟を皇女が間違えるはずがなかった。
皇女は皇子に駆け寄り、皇子を抱きしめる。雨に濡れた皇子の衣から皇女へとその湿りが伝わる。皇女からは熱い体温がじんわりと伝わった。
「大津、大津、かわいい弟。ああ、こんなに冷たくなって……」
皇子も姉皇女を抱き返した。知らない間にたくましくなった腕に驚いて皇子を見ると、皇子は苦しそうに微笑んだ。
「姉上……一目お会いしたくてやって参ってしまいました。いけないとわかっていながら――姉上にもそう言われていたのに、どうしても最後にお会いしたいと……」
「そう――確かにそう言ったわ。ああでもお願い。最後なんて言わないで。再びまみえただけでもうれしいのに。……でも」
皇女は辛そうに、否定されることを祈って言う。
「鵜野(うのの)皇后(のちの持統天皇)さまは、おまえを政から外しなさったと耳にしたわ。そしておまえの謀反の噂が捏造されていると……あの話は本当なのね?」
皇子は静かに頷いた。皇女は眦を吊り上げる。
「ばかなことを! 皇后さまもなんと愚かなことをなさる! おまえもおまえだわ。父帝(天武天皇)がお隠れになってすぐのこの時期に都を出るだけで怪しまれるというのに、噂さえあって。何を考えているの?」
皇子は淡く笑んだ。
「何も。特に理由はありませんが、姉上にひとたびお目にかかりたいと存じまして」
その様子に皇女はもう何も言えなくなる。ああ、と溜息をついた。炭櫃の炭が音も立てずに崩れ、皇子の美しい顔の翳がわずかに深みを増した。