現代短編

□こけしに寄せて
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 雨が降ってきた。二十階建てのデパートのビルには、窓がほとんどない。もちろん雨音が聞こえるはずもなく、私がそれに気付いたのは、一階に降りて濡れた床を見た瞬間だった。
 嫌な予感がした。買ったのは、服一着とこけしと黄色いカーテン。そして大きなクッション。今、私は買ったばかりの服を着ている。大荷物を持って、マンションへの十五分間を歩くつもりだった。なのに、それはできない。家に帰ってすぐにつけ替えようと思っていたカーテンが、濡れてしまう。買ったばかりの服が濡れてしまうのも、気に食わない。かといて、タクシーを読んだりするのはもっと嫌だった。
 そのままの恰好で私は外に出た。屋根がある玄関口から、一番近くて大きな水溜りを精一杯睨みつける。雨はそんなにひどくはなかったが、十五分間歩けばたっぷり濡れてしまうほどではあった。
 腹が立つ。
 ふと強い視線を感じて、私は顔を上げた。十メートルほど離れた駐車場から、男がひとりこちらを眺めていた。私と同じくらいの年だと思う。顔は可もなし不可もなし。背広を着て、黒々とした髪をきちんとセットしていた。ちょっと見、頭が切れそうに見える。
 男は私と目が合うと、すぐに視線をそらした。他の人と同じように雨から頭を守るようにして背中を丸めて、小走りでデパートの中に入っていこうとする。知らぬ振りをしようとした態度に腹が立って、私は射るように男をねめつけた。
 男は私を少し過ぎたところで立ち止まると、私を振り向いた。再び目が合う。私は違和感を覚えた。この男――
 男は軽く笑う。切れそうな印象は、やはりそれで崩れた。垂れた目と緩んだ口許が、情けない印象を与える。
「久しぶり」
 男は言った。久しぶり? 何のことだ。心の中では言い返すが、私は男をねめつけたまま押し黙っていた。だが男は構わず言う。
「元気だったか、優子」
 私は大きく見開く。次の瞬間、私の右手で乾いた音が炸裂していた。痺れた手のひらが、何があったかを悟らせる。見開いたままの私の目の前で、男の左頬は赤くはれ上がっていった。男ははじめ驚いたような表情をしたが、それは一瞬のことで、すぐにもとの笑顔に戻っていた。さっきと同じように情けなくて、でもさっきよりやさしい表情だ。
 私は自分の心臓が早鐘を打っていることに気づいていなかった。
 男が一歩踏み出す。
  ――と、足元から重い音がした。二人同時に視線を落とす。そこには、さっき私が買ったばかりの手のひらサイズのこけしがあった。男を平手打ちしたときに落ちてしまったんだろう。濡れた足で蹴られて、黄色い顔がほんの少し汚れてしまっていた。それが、えもいわれぬ哀しみを誘う。 
 私は膝を曲げ、ゆっくりと手を伸ばす。その鼻先を、茶色い手が掠めた。
 男だった。
「懐かしいな、優子」
 男はこけしの顔を撫でながら私の名を連呼する。今まで男に名前だけで呼ばせたことなどなかった。恋人であってもそれだけは許さなかったのに。やめて、と言いたくなる。だがその前に、なぜ、と私は言った。
「どうして、私の名前を知っているのですか」
 冷たく響いた声は、雨の中に溶け込んでいった。
 男は少しだけ表情を曇らせた。口元に浮かべていた笑みはそのまま、眉だけをわずかに寄せる。わたしはその情けない顔を、にらみつけるように見つめた。
 しばらくして、男は背広の懐から何かを取り出した。そして、それを拾った私のこけしと一緒に私に差し出した。
 一対のこけしは、サイズだけが違った。
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