現代短編

□こけしに寄せて
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「徹……」
 無意識のうちにその名を呟き、わたしは荷物を持っていない右手で左腕を抱えた。雨に冷えたからか、体が小刻みに震えていた。
 それは、封印された名前。封印した記憶。
 徹は友だちだった。恋人なんかじゃなかった。
 女同士のおしゃべりは面白いものではあったが、同時に疲れるものだった。徹は私のビタミン剤。自分と同じ女には話さなかったことも、何でも話した。家族のこと、友人のこと、部活のこと、進路のこと――徹も私に何でも相談した。もちろん、恋愛も。ダブルデートだって何度もした。
 かけがえのない、友人だった。
 十一年前、大喧嘩して連絡が途絶える前は。
 ――最低。
 ――最低なのは、どっちだよ。
 もう、このやりとりしか記憶に残っていない。だけど、二人とも一番憎んでた言葉を、使ってしまった。今、その後悔の念だけが蘇った。
 こけしは、二人で買った唯一のものだった。あのえもいわれぬやさしい笑みが二人とも好きで、恋人同士みたいで照れくさいけど、と。二人の友情の証として買った。
 私は昔、ロマンチストだったから。
「私の部屋のこけしが寂しがっていたから」
 私は照れたように首をすくめる。
「大きさ違ったけど、模様が同じなもんで、つい」
 その顔に少しだけ笑みが乗っていることに安心したのか、徹は目元を緩める。垂れ目になった徹は、やっぱり情けなかった。私はいつも、この笑顔に心を許していたんだけれど。
「いいんじゃないか? 俺のはもっと寂しい。青系統の部屋だから」
「黄色だけぽつんと」
 徹の昔の部屋を思い出して私が言うと、まあな、と徹は肩を揺らした。昔に比べてだいぶ恰幅がよくなった。それでも、徹は、部屋の色は昔と変わっていない。
「家族、増やせばいいじゃない」
「男の部屋にこけしが何体もあると、不気味だろう?」
 今度は違う青い部屋を想像してみる。ステレオ、参考書の代わりに、パソコンやたくさんの資料がある中にこけしが並んでいる部屋を。確かに、と私はうなってしまった。
徹は、大きいほうの、つまり私がさっき落としたほうのこけしを私の手に握らせた。そして、時間はあるか、と訊いた。私がうなずくと、そうか、と徹は笑った。私たちはどちらからともなくビルの中に入っていく。
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