コラボ

□ささやかな願いをこめて
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 あれは、いつのことだったか。あれからいくつもの季節が巡り、夏が来て、冬になった。
 もう、何年も前のこと。
 名前を隠して、地位を隠して、旅をしていた――…



 うだるような暑さが続く。
 茶州は紫州よりも北にあるいうのに、それでもこの暑さだ。貴陽はどれほど暑いだろう――
 そのおかげでまだ官吏でもなかったのに外朝で働くことのできた一年前の夏を思って、冷茶を入れていた秀麗の顔に思わず笑みが漏れる。
「いい笑顔だね、香鈴。でもその笑顔は私のためのものじゃないね?」
 夏に似合わぬひんやりとした手で顎を捉えられ、秀麗はくいっとそちらを向かされる。
 目の前に急に千夜の顔があって、秀麗はドキリとする――がすぐに平静を取り戻してその手を外す。
「びっくりしてくれた? ねぇ、香鈴」
 嬉しそうに訊く千夜に、秀麗は苦笑した。
「だって若様、やっぱり顔はきれいなんですもの。私みたいに十人前の顔だとね、きれいな顔を見ると、条件反射でドキドキしちゃうものなんですよ」
「顔だけ?」
「そうです。若様、自分では何もできないじゃないですか。隊商はこれでもかってくらい進むの遅いし、自分の身の回りのことは全部私がやってるし、朝も全然起きないし。やっと起きたと思ったら、もう昼過ぎですよ? おはようございます、若様」
 おはよう、と千夜は苦笑した。
「君の言うことには否定できないね。でもね、香鈴。私の君に対する思いくらい認めてくれてもいいんじゃない?」
 後ろから腰を掬われて、秀麗は千夜とともに、寝台に倒れこんでいた。
 と思ったら、髪までほどかれていた。
「わ…若様……!!」
「君はとってもかわいいよ。巷のどんな美しい女性のどんな美しい女性よりもね。こうして髪を下ろしてくれたら、もっと私好みなんだけどな」
 耳元で甘く囁かれ、秀麗はぞくりとする。
「……アツクナイデスカ、ワカサマ」
 千夜は笑った。
「言葉が固くなってるよ。本当にかわいいね。暑いよ、本当に暑い。でも君と一緒にいられるなら暑いのもうれしいよ」
「暑いです! 私は暑いの苦手なんです!」
「嘘ばっかり」
「本当です!!」
 秀麗が叫ぶように言って千夜の長い髪を引っ張ると、千夜は身を起こした。
「いててて。やはり君はなかなかなびいてくれないね。そこが素敵なんだけど」
「どんな物好きなんですか、あなたは」
 ぶつぶつと呟きながらも秀麗は千夜から逃れる。テキパキと髪を結んでいると、視線を感じた。
「なっ何ですか、若様」
 しかし千夜はじっと見つめたまま答えなかった。
「若様……?」
「ねえ、冬だったら、髪を下ろしてくれる?」
 見たことのないような真剣な表情。切れ長の眼が、まっすぐに向いている。いつもと違う神妙な様子に、秀麗はふいと外を向く。
「……いいですよ」
「よかった」
 千夜は満面の笑みを浮かべた。本当に嬉しそうに、ふんわりと。
 いつもの妖艶な笑顔とは全く違って、秀麗はドキリとする。
(もう、調子狂っちゃったわ)
 だがよく考えると、千夜のささやかな願いを叶えたのは、初めてのような気がする。
 髪を結うのも服を着せるのも、侍女としての仕事だと考えたら。
 小さな願いをいくら断っても、彼はこうして優しい目を向けてくれるのだ。
 少しくらい……
「じゃあ、冬もここで働くこと決定だね」
 再び掴み所のない若様になって、ハッとする。
「え? そういうことなんですか!? ダメですよ、私しなくちゃならないことありますし!」
「うん、知ってる」
「だったら……え!? 知ってる!?」
(どどどどうしよう……ばれ…ちゃってるってこと!?)
 過度に驚く秀麗に、千夜はそっと笑う。
「だから、こうして全商連と一緒に金華に向かってるんだろう?」
(そうか、そういうこと…)
 安心した秀麗は仕方ないというよう微笑んだ。
「そうですね、そのとき落ち着いていたら。若様のお邸にご挨拶にに伺いますよ」
 千夜は何事かを思うように遠くを見た。
「若様?」
「その時君は何をしてるんだろうね。そして私は」
「それは秘密です。でもどうしてもっていうなら」
「うん、どうしても」
「わかりました」
 千夜は微笑み、囁いた。
「約束だよ」
 どこまでも優しい声で、願うように、そっと。



 ――約束だよ。
 彼はそう言ったのだ。
 結局彼は約束を破ってしまった。哀しいほどに優しく、それゆえに残酷な形で。
 彼はもうどこにもいない。この世界のどこにも。
 冬になり、髪を下ろしていても喜んでくれる人はいないのだ。
 それでも秀麗は冬は髪を下ろす。いつか会えるかもしれないというささやかな望みをこめて。
 だから。
「もう一度、帰ってきて……」
 静かな声は、真っ白な雪の中にしみこんでいった。
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