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□ラブシック
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世界には誰もいなくて、音もなかった。
楽しいとも嬉しいとも思わなくて、静寂からか寂しい空気が漂っている。
ふと、自分が学校にいることに気付がいた。空には赤と橙を混ぜたみたいな夕日が覗いていて、濃いオレンジの光を窓から注いでいた。
この世界に色が存在することに感謝せずにはいられないような美しいオレンジに嬉しくなる。
その気持ちのまま3年B組の教室へと向かったけれど、何故か仁王の席にあるはずの机と椅子がなかった。
不思議に思う前に当の本人がその場所に立っていることに意識を削がれる。
仁王はそこに立ったまま入り口に立つ俺を無表情で見ていた。

その視線が物悲しい。何もかもを冷たくさせるような感情のない琥珀色の瞳。
見たことがある仁王の瞳なのに、こんなのは見たことがないような気もする。

先程までの嬉しかった気持ちが急に恐怖へと姿を変えて、たまらず俺は逃げ出した。
何となく逃げてはいけないと、逃げることは罪だと分かっているのに逃げずにはいられなかった。
だというのに、逃げても逃げても、仁王の視線が頭から離れなくて、苦しかった。
死にたくなった。

濃いオレンジの光は、いつのまにか病的なほどに蒼白な月の光に移り変り、空は絶望を思わせるような黒に近い藍色へ変わった。

なんて、なんて悲しいんだろう。

そう思った頃には頬に一筋涙が伝っていた。


その時、最後にみたのは、







ピピピピッ
ピピピピッ

「うぅ〜ん…」
夢へと向かっていた意識が、人工的な電子音によって現実へと引き戻されていく。布団の感触や部屋の雰囲気全てから変わらない日常を感じる。そうなると、頭の中の世界へと戻るのは簡単ではなかった。
それでも夢と現つの狭間で揺れ動く意識を、なんとか夢の世界へと戻そうとする。

ピピピピッ
ピピピピッ


(…うるさい!)

目を瞑ったまま手探りで携帯を探す。が、そう簡単に見つかってはくれない。
寝起きの頭では、単純に「下に落ちているから」という見つからない原因に気が付けるはずもなく、携帯のないベットの上で手を右往左往させる。
目を開けなければ見つからないと諦め上半身を起こす。
起きた瞬間、枕が濡れていて驚愕した。

「…なんで」
手を頬に宛行うとそこは濡れていた。
はっ、と何か夢を見ていたことを思い出す。
しかし、それがどんな内容でどんな感情を抱いていたのかは忘れてしまった。

きっと、泣くほど悲しい夢だったんだろうな。

ぼんやりと考えてから、未だうるさく鳴っている携帯のアラームを止めた。









俺は仁王を避けた。
ドキドキの原因を元から断つために。

休み時間は仁王のいないところ(C組とかI組とか)に行ったし、部活にも仁王を置いて一人で行くようにした。登下校中に会っても目を合わせなかったし、話し掛けもしなかった。仁王から話し掛けられても知らないふりをした。

そうやって仁王を避け始めて一週間が経った。
最初の頃は疑問に思いながらも話し掛けてくれたけど、今では一切会話はない。

そして俺はというと、前ほどドキドキしなくなっていた。
やっと病気が治ったんだ。よかった。
そう思っていたのに今度は何かが足りないような気がしていた。
例えばそう、苺の乗っていないショートケーキとか山葵のないお寿司とか、大事な何かがすっぽりと抜け落ちてしまったような、物足りないような。
何故なのかはわからないけれど。




そんな疑問が心を占め始めてから、また一週間が経った。
俺は相変わらず仁王を避ける生活をしていたわけだけど、今日に限ってはそれも難しい。

「なんだ藤山は欠席か。じゃあ、仁王と丸井日直よろしくな」
いつものジャージを着た担任はそう言って、窓際の一番前(所謂、角の席だ)にいる仁王に学級日誌を渡した。
「じゃ、朝のHR終わり!丸井号令!」
朝から元気な担任は俺に爽やかな笑顔を向けて言う。
「起立、礼…」
その遠慮のない爽やかな笑顔がいつもは親しみやすいと思っていたけれど、今日ばかりは憎たらしい。

何となくいやな予感がしてたんだ。みんな席に着いてるのに藤山の奴見当たらないんだもん。
まじあいつ後でパン奢らせる。

そんな不穏なことを考えていると、仁王が俺の席に来ようとしているのが見えた。
やばい。どうしよう。
今まで避けてきた仁王と逃けてきたドキドキが一気に心を占める。
避けなきゃいけないけど、日直を押しつけるわけにはいかないし。だけど、また再発してしまう。
あぁ、でも…っ。
「俺、日誌書くの苦手やけ、ブン太よろしく」
話し掛けられた瞬間意を決める。
「し、しょうがねーな…」
「俺は黒板係やるけぇの。ほら、ブン太届かんじゃろ?」
「…だと、てめぇ!」
「きゃー、こわーい」
俺の尖った声に肩を竦めて身をひらりと躱す。
「じゃ、そーゆーことで」
「…ん」
そして角の席へと去っていく。

(なんだ…)
二週間ぶりの会話は呆気ないものだった。
ドキドキにそぐわない程、簡素で淡々としていて…少し落胆した。それに嫌になって、嫌になったことにまた嫌になった。

だけど今は何故か、今まで物足りなく思っていたものが塞がれたような気がしていた。
ショートケーキには苺が乗ったし、お寿司には山葵がつけられた。

納まっていたはずのドキドキは、案の定再発してしまったけれど。


それからは、話し掛けられることも、もちろん話し掛けることもなく、これまでの二週間と同じような一日が過ぎ去っていった。
ただ違うのは、話し掛けられたらどうしようと思っている自分の感情だけ。
避け始めた頃もそれなりにそう思っていたけれど、すぐに仁王は何も言ってこなくなった。
だから、きっともう話すことはないんだと思っていたのに、…さっきの会話の所為で動揺してしまった。
ただ、それだけだ。

(また話しかけられたらどうしよう。)

それだけの筈なのに、そう簡単に病気は治ってくれないらしい。




いつもより今日は天気がいい。風は穏やかだし日差しは柔らかく心地よい暖かさだ。
こんな日はテニスに限る。
早くあのコートで俺の天才的妙技を…!

逸る気持ちを押さえ切れず帰りのHRが終わった瞬間一番に教室を出る。
早く早く、早くテニスがやりたい!


「あ!」
走って走って、部室に入る瞬間に気付いた。
「丸井先輩、そんなとこでつったってどーしたんすか?」
ドアの前で立ち止まっていると後ろから同じように走ってきたらしい生意気な後輩の声がした。
「日誌書くの忘れてた」
「は?…日誌?」
「今日日直なんだ」
「なーんだ。そんなもん、相手に任しときゃいいっしょ」
赤也が「丸井先輩らしくないっすよ」と呆れたように笑いながら着替えを始める。
「でも相手、…仁王だし」
「あー…」
呆れたような笑みが諦めたような笑みに変わる。
「ちょっと、行ってくるわ」
すっかり着替え終わった赤也にそう言い捨てて部室を去った。

「早く戻んないと真田副部長にシメられますよーっ!って行っちゃったし…」






夕焼け色に染まりつつある廊下を一人歩く。
立海大付属中は坂の上にあるため、夕日の光が綺麗に差し込んでくる。
暖かいオレンジの光に包まれるこの時間帯は好きだけど、同時にものすごく切なくなってしまうから少し苦手だ。
「あーあ、走って損したぜぃ」
部活へと向かっていた意識が必然的に仁王へと向かってしまう。
だって、仁王の所為で今日一日ドキドキしっぱなしだった。
そりゃもう、今まで何の為に避けてきたんだってくらいに。
俺は避ける以外にこの病気を治す方法がわからないんだ。わからないのに、でも治したい。

夕方の廊下は少し現実離れしているような気がする。
そこだけ切り離されてしまったような孤独感。

別棟で練習しているのだろう吹奏学部の少しはずれた音色や、野球部が金属バットにボールを当てたときのカキンと甲高い音、それら全てが浮き世離れしている風だった。


そして外のテニスコートからも、まだ甘いインパクト音が聞こえる。
なぜかそれだけは恐いほどに現実味があった。

あぁ、一年かなと思いながら、自分が一年だったときのことを思い出す。
さっきのインパクト音、ここにくるまではきっと自信のある音だったんだろうけど、ここでは通用しない。俺も実際そうだった。
あの頃はまだ、周りが見えてなかったんだ。自尊心だけ高くて、何でもできるって思ってた。

だけど違ってた。だから違っていないようにしようと努力して今があるんだ。
俺はテニスと向き合えた。

仁王のことはちがう。
あの頃は目を見て仁王と話せたし、触れてもドキドキしなかった。
何より一緒にいて楽しかった。

今はもうそんな気持ちにはなれない。楽しくなんかない、むしろ辛いし痛い。
仁王と向き合うのが恐い。

そんなことを考えながら3年B組の教室に入ると仁王の机の上に何かが置かれているのに気が付いた。

「…日誌、だ」

途中まで書いてある。
ということは戻ってくるかもしれない。

もしも今仁王が戻ってきたら、俺はどうしたらいいのだろう。
避ける?話す?それとも、


わからない。
だけど、動けなかった。
焦る気持ちもあるけれど、今は感情が上手く働かない。


【日直:仁王雅治・丸井ブン太】
仁王の字で書かれたそれを指でなぞる。
夕方の濃く暗い影が、俺の指の形と同じ形を日誌の上に闇を落とす。
あんまり上手くないけど下手でもない字。でも、ここぞというときは柳生並に上手くなるからつくづく詐欺師だと思う。

【時間通りに授業を開始できなかった。】
「…はは」
なんだよ、それっぽいこと書けるじゃん。日誌書くの苦手だって言ってたくせに。

「………」


全部、全部覚えている。
頭が真っ白になっていたっていうのに。
仁王を避けようと決心したあの日、俺の席で仁王と話したこと。
それだけじゃない。
旋毛の位置も、シャーペンを持つ左手も、握られた感触も、言葉、声、表情、仕草、そのとき感じた感情だって、全部覚えてる。

ああ、だめだ。
もうきっと末期の病なんだ。
鼻の奥がつんと痛い。
目頭が熱い。
これは、なんていう症状だろう。

「…っ」
足の先から頭の天辺までじんわりと熱い。
中でも心臓が一番熱くて、そこから全身へと熱い何かを循らせているのがわかる。
だけれど、体の底から込み上げてくるような感覚もした。
きゅっと絞られる感覚。
心の穴が広がる様な、それでいて埋まるような感覚。
まるで全身が心臓になってしまったんじゃないかと思うくらい体中がドクドクと鳴る。
ズキズキと痛い。
呼吸がし辛い。


視界が滲んで、

「…に、おう」

そして、ついにあふれてしまった。

一度外へ出るのを許してしまうと、もうだめだった。
涙は留め処なく溢れて止まらない。
避けていればドキドキなんてなくなると思ってた。
なのに名前を呟いただけで、まだこんなにも苦しいなんて。

「…にお…」

苦しくて苦しくてしょうがないのに、失ってはいけないものだったと思うなんて。
だけど、自分はもう失ってしまった。それどころか自ら断ち切ってしまった。

失ってしまったのに、苦しい。
失ってしまったから、もっと苦しい。



何でドキドキするかなんて、好きだからに決まってるのに。




そう認めた瞬間に仁王に会いたくなって声を聞きたくなって思わず駆け出していた。


「ブン太…?」

ドクンッ

まただ。
仁王はいつも不意打ちで、ずるい。
駆け出したまさにそのとき仁王は俺の目の前に現れた。
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