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□胡蝶之夢
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家に戻ると、黒崎が車椅子からベッドへ身体を移す。俺はその補助に回った。
黒崎は身体が弱い。その為、一人で身体を動かすのは困難なのだ。先天的なものではなく、後天的なものらしいのだが、詳しくは識らない。介護をする上で必要だから、と幾度となく教えてくれるよう言ってみたが、黒崎は自分の身体について口を開こうとはしなかった。だから、俺は彼の最低限の介護しか出来ない。
黒崎が無事ベッドへ収まると、俺は台所へ赴き、既に作り終えている料理を温め直して、再び黒崎の許へ戻る。彼の為の朝食兼昼食。そして此処でも一悶着が起きる。
「食事だ」
食事用のテーブルをベッドの上へ設置して、其の上に食事を置く。
「欲しくない」
すると口許を尖らせ、黒崎はごね始めた。
また始まった、と俺は内心溜息を吐きたくなった。そういう機能は俺には付いていないので、本当には吐けないのだが。
「食べないと薬が飲めない。それに体力も付かない――少しでもいいから食べておけ」
「うーー……」
唸りつつ、黒崎は手に持ったスプーンでスープを持て余すように掻き回す。
「……洗濯して来るから。その間に食べておけよ」
「うーー……」
「いいな?食べたら薬、な」
「うーー……」
スープを掻き混ぜながら尚も唸る黒崎を残し、俺は部屋を後にする。
戻って来ると、黒崎は眠っていた。殆ど手が付けられていない食事と薬とを目にし、俺は矢張り溜息を吐きたくなりつつ、残った食事を処分するのだった。
◇◇◇◇◇
「冬獅郎」
夜。眠る時間になると、黒崎は俺を呼ぶ。
そしてやって来た俺を自分の布団を捲って、中へと招き入れるのだ。促される儘、黒崎の隣へと横になれば、彼の腕が俺を抱き込むようにして巻き付いてきた。
初めて黒崎と暮らすようになってから、彼は俺とこうやって一緒に眠る事を求めた。こうやって一緒に眠ると安心して熟睡出来るのだそうだ。彼の言っている事は正直、自動人形の俺にとって理解に苦しむものであったが、一緒に寝るからといって、特別俺に対して何かしらの要求をして来ることはない。それに身体の弱い黒崎にとって睡眠は人一倍重要である。なので、眠れるのだというのであれば、俺に否やを唱える理由など無い。そもそも俺に彼の《命令》を拒むことは出来ない。
何故なら、俺は黒崎の自動人形で、彼は俺の主人なのだから。黒崎の介護を中心に彼の身の回りの世話をする――其れが俺の役目であり『存在理由』。
その為のありとあらゆる知識が『俺』の中には有った。
「おやすみ、冬獅郎」
「ああ」
素っ気無い俺の返事、だが、黒崎はそんな俺の返事でも嬉しそうに微笑んで、俺の髪を柔らかく梳いた。梳きながら黒崎は小さく何事かを呟いて、そして瞼を閉じる。小さく微かに空気を震わせただけのその彼の言の葉を俺の高性能な耳は拾っていた。
――アイシテル
「愛してる」
何かをとても好きだという気持ち。
黒崎は度々此の言葉を俺に向けて口にしてくる言の葉だった。知識としては識っているその言葉を受け止める度に俺はいつも混乱する。
何故、彼がそんな言の葉を載せるのか。自動人形である俺相手に。
だけど。
俺に解るのは、彼がそうやって俺に其の言葉を紡ぐ時はいつも何かに耐えている様な表情を浮かべている事。そして、とても丁寧に優しく俺に触れてくる事。その二つだけ。
まるで誰にも渡したくない大切な宝物のような黒崎の深い声音と柔らかな温もりとを感じる度に、俺の中で理解不能な何か蠢くのだ。今日もまた。
理解出来ない儘、黒崎が眠った事を知り、俺も瞼を閉じると形態を睡眠状態に切り替えたのだった。
此れが俺と黒崎の一日。
◇◇◇◇◇
瞼を開いた瞬間、飛び込んで来たのは橙色だった。
『はじめまして――えーと、とうしろう?』
それから、心地良い少し甘さを含んだ声となんて表現したら好いのか解らない澄んだ宝石の様な瞳と。
その人は俺より頭二つ分背の高い男の人であったが、車椅子の上に座っていた為、俺と目線の高さがほぼ同じだった。俺の中にあるデータが『彼』の姿に反応し、作動し始める。
嗚呼、『彼』が俺の――…
『初めまして――黒崎一護様ですね。私は日番谷冬獅郎と申します』
『うわ、敬語……頼むから止めてくんねぇ?』
『は?』
いきなりの《命令》に混乱しそうになる。如何処理すればいいか解らず、俺は隣を見上げた。
俺の混乱に気付いたらしいもう一人の男が苦笑を洩らしながら、俺の代わりに彼に説明する。
『駄目ですよ、黒崎サン。《命令》はもう少しだけ待ってやって下サイ。この子は今、初期設定の最中ですから』
『命令?』
『ええ、主人(マスター)であるアナタが《命令》すれば、幾らでもこの子は聞きます。設定が終われば、ですが』
ただ、そんな《命令》は初めて聞きましたケドね、とその人は薄く笑った。
『ソレって、コイツの意思は?』
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