NOVEL3

□そして僕らは歩き出す
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―― And we start to the XXXXXX. ――




九月。
夏休みが明けて三年は部活も引退し、学年全体が受験モードに変わりつつある。
先週までは青々としていた木々の葉も、徐々に秋の色合いに変化し始めていた。

清水律季(しみずりつき)は、窓から中庭の銀杏の木を見下ろしながら、放課後の廊下を歩いていた。

静かだ。だが自分の足がリノリウムを叩く、こつんこつんという音が異様に響いて、不思議な優越感が生まれた。
律季の他にも誰かがいることは確実だが(実際にさっき通った職員室前では教師たちが会議をしている声が聞こえた)、この学校という名の箱は生徒が視界にいないだけで、こんなにも広いものなのか。
そして誰もいない空間にいる自分。独占できることは授業中の昼寝の次に気持ちいい(たぶん)。

あちこちから聞こえる音は、いろんなものに反響して奇妙なハーモニーを奏でている。
引継ぎ作業も終わった部活は新体制で活動を始めているのだ。
グラウンドから野球部やサッカー部の掛け声。
最上階の音楽室からブラスバンド部の演奏。
様々な音が混ざり合ってセッションしている。

律季が所属する写真部は、十月末にあるコンテストを最後に引退すると決まっていた。そろそろ大会本部に提出する写真を選ばなければならない。
写真は好きだが大会前に写真を選別する時間はなんとなく嫌いだった。

かさり。
右手のビニル袋が揺れる。
たった今、長期休業中に撮り溜めた写真を現像したものが入っている。
暗室があれば自分で出来たのに、生憎この学校には浄水設備がない。
それがないと水道水中の塩素がフィルムなどに悪影響を及ぼすため、現像は無理なのだ。
まあ、代金は部費から出るから困っているわけでもないからいいけれど。

夏休み中にワックスをかけたのか、リノリウムは窓ガラスから入り込むオレンジ色の光を浴びて、煌々としている。
まるで鏡だ。
律季の茶色い髪や顔まできれいに映っていた。

そもそも、本当は学校に戻ってくる必要なんてなかったのだが、昼休みに偶然顧問とすれ違ったとき、写真を見たいと言われてしまった。
しかも職員会議が終わってからだという。
……仕方ない。

どうせ家に帰ったって暇なのだ。
終わるまでホームルームで時間を潰そうと、教室のドアを開けた。


「……あ、れ?」


薄暗い教室は、オレンジ色のペンキをぶちまけたように鮮やかだった。
電気が点いていないことは、ドアの曇りガラスからわかったし、うちのクラスは進学クラスだから、みんな塾にでも行って誰もいないものだと思っていた。

しかし、律季の席(窓側の前から三番目)では短い髪が揺れていた。

ポロシャツから生えているような筋肉質の腕は、紫外線をもろに受けていたからか焦げ茶色。
さながらブラウンの手袋をしたようだった。そして机に突っ伏したまま、肩だけが上下に動いている。
すうすうという寝息が微かに聞こえた。

彼の名は宮下愁(みやしたしゅう)。
同じクラスで、出席番号も近い。
だが喋った記憶はあまりなかった。
確か七月まで野球部の副主将兼正キャッチャーを担っていた男だ。
今まで坊主だったのに、その面影はまるでない。引退してから髪を伸ばしているらしい。
律季にとって、坊主ではない愁のほうに違和感があった。


「宮下、起きろ。てめえ、何で俺の机で寝てんだよ」

「……」


とりあえず、と愁に歩み寄り、右手で肩を揺らす。
だがこの男の身体はぴくりとも動かない。
目も開けない。
若干腹が立った律季は、思い切りイスの脚を蹴った。
つい二ヶ月前までスポーツをしていた人間を乗せているそれは重く、爪先にじんじんと地味に響く痛みを代償にガタン! と大きな音をたてた。

漸くうっすらと目を開けた愁は瞬きを繰り返すが、途端に大きな欠伸をして、上半身を起き上がらせた。
そして掠れた声で、ううんと唸る。髪と同じ色の眼がきょろきょろと動いて、律季の姿を確認した。


「しみず?」

「よう、宮下ァ」


頭を掻いたあと、しばらく呆けていた愁だったが眉間に皺を寄せている律季を見て、ぎょっと目を丸くした。


「……人の机で堂々と寝やがって。そんな暇があるなら、後輩指導でも受験勉強でもしてろよ」

「はは、確かに」


しかし、今度は律季が目を見開いた。
何故なら自分より十センチも高い身長の男が、いつもの明るい彼からは想像もできないような自虐的な笑みを見せたからだ。
どちらかというと『後輩指導』に反応したようで、思いかげず唇を真一文字に結んだ。

悪かったなあ、と間延びした様子で愁は席から立ち上がると、窓と向き合った。
律季も視線で追うが、ぎらぎらとした夕日は思わず逸らしてしまうほど眩しい。
がっしりとした愁の身体は逆光で闇と化した。
何故かそれは胸を締め付けられて苦しい。
鼻の奥がつんと熱くなる。
そこで漸く先ほどの笑みの理由を悟った。
ああ、俺はこの背中を、見たことがある。
右手のビニル袋が、音をたてた。



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