先は見えないけれど 2
突然。
「――其《そ》は夜闇《よるよみ》の刃なり――」
言乃葉ではない魔術の呪文の詠唱。聞き慣れぬ女の声が漆黒の街に響いた。
「っ痛……。使役の呪文?誰だっ!」
伸ばした右手に激痛が走る。数秒遅れて、深紅が滴った。構わず彼女は抜刀し、構えた。しかし、油断は禁物である。
使役の呪文は、契約魔術と呼ばれる術の呪文の一つである。契約魔術とはある特定の存在と予め契約を結び、呪文の詠唱によりその力を借りるというものである。契約は常に対等に成され、強力な呪文を使う場合は無論、代償も大きくなる。使役の呪文はその中でも高度かつ強力な契約の際に用いられる呪文であり、よほどの実力と精神力の持ち主でなければ代償として持っていかれるモノの重さに耐え切れずに、最悪命を落としてしまう。
故に、闇を自在に使役する敵が相当の実力の持ち主であることは、想像に難くない。
「……子供の夜遊びは危ないわよ」
先程の声の主は、言うと同時に姿を現した。黒い法衣を纏った、妖艶な女が。
闇に同化してしまいそうな、一切の異色を寄せ付けない黒髪。長い睫毛に縁取られた大きめの瞳は、深い藍。形の良い唇には、毒々しいながらもどこか彼女に自然に溶け込む紅が差してある。
「法衣の君は、言乃葉を扱えるようだね。若いのに感心だよ」
続いて現れた、同じく黒法衣の男。彼女の傍らに寄り添うように立つ彼は、整った顔立ちながらどこか冷めたような、無機質な印象を受ける。
「名乗れ」
咎詠が低く呟く。
「……私は日本国魔法大臣の代《しろ》よ。こっちは外交大臣の御臣《みおみ》。ところで……貴方達は、見た所魔研の使者よね。何の用?」
代、と名乗った女は風に法衣を靡かせ、宙に頬杖をついた。
「答える義理などないわ。今すぐ去りなさい」
瞑葬は刀を構えたまま言った。先程攻撃を受けた右手が規則的に痛む。滴る雫が、無彩色のアスファルトを鮮やかに染める。
そんな彼女を見て、御臣は面白そうに笑った。
「おや、他人には名乗らせておいて自分は何も答えないのかい?魔研は随分と行儀の悪い人形を寄越したみたいだね」
「人形などと……。ふざけた事を言うな!」
激昂した瞑葬は、刀の柄を握り直すと御臣に斬りかかる。しかし、後先考えずに振った刃が素人でもない彼に当たるわけがなく、彼女の愛刀はただ空しく空を切るだけだった。御臣は呪文の詠唱も無しに幾つかの炎弾を放ち、瞑葬に反撃を仕掛ける。
「……っ」
「――縷水EVMBXwN消煙――」
咄嗟に後退る彼女の前に、咎詠が間一髪で水属性の防御壁を展開した。
「……ありがとう咎詠」
「死なれたら困るだけ」
「……」
「なるほどね……、噂通りだわ。魔研が生み出した6つのお人形――実際は5つだと聞くけれど」
「黙れ政府の狗が!」
「あら、どこが間違っているのかしら。死なないって事は、生きても居ないのでしょう?それでも、人の形をしてるからお人形」
代はクスリと笑い、呪文の詠唱に入る。
「――其は月闇《つきやみ》のまやかしなり――」
今度は呪文と共に、細く長い指で印を組む。僅か半秒、彼女の姿が消えたかと思うと、次の半秒で今度は、何十人にもなって現れ、瞑葬を取り囲んだ。
「っ、分身!?」
瞑葬は一瞬焦り、目を見開くが、すぐに目を瞑り、聴覚に神経を集中させる。
幻ならば、存在そのものは感じないはずである。音も気配も、全てが存在しないはずなのである。
それなのに。
「おかしい……。全部気配が一緒なんて」
つまり、全てが幻ではないのだ。代の分身の存在の全てが、実態を持ち、本物と同じように存在するのだ。
「どれが本物だか……分からない!?」
そんな事は初めてだった。瞑葬が今まで遭遇した中で、実体を持った分身を作り出せた者は居なかった。
「と、咎詠……」
珍しく瞑葬が焦った声を出す。咎詠がそれに応じて呪文詠唱のスタンバイをする。
「――jwAy霧lrDi夢icWm無」
しかし詠唱が終わらない内に、彼女の声は途切れる。
「っ!?」
呪文は途切れ、変わりに声の無い悲鳴が響いた。
「咎詠!!」
驚いて目を開けば、そこには御臣の術で何かしらの制約を受けたのだろう、喉に手を当てた状態で固まった咎詠の姿があった。彼女の状態からして、声を奪われたのだろう。
しかし、御臣が呪文の詠唱をした気配は全く無かった。
驚き彼の姿を視線だけを動かして探せば、いつの間にか彼の姿は住宅街の一角、比較的高い建物の屋上にあった。一般の人々の聴覚ならば、この程度の距離があれば呪文の詠唱が聞こえないのは当たり前だろう。しかし瞑葬には、その当たり前が当てはまらなかった。なぜなら、視覚を殺した彼女の聴覚は、彼女の望む音全てを聞かせてくれるのだから。無論、彼女が戦闘中に敵の呪文の詠唱に気を配らないはずがない。つまり、呪文の詠唱は、聞こえなかったのではなくそもそも行われていなかったのだ。
「そんな魔術……、初めて見た」
思わず呟くと、彼女の周りの全ての代の姿が答えた。
「そりゃ……、私たちが魔研と対立してから編み出した秘法だもの。無音の詠唱……、私たちはそう呼んでいるわ。もっとも、これを使いこなせるのは今のところ、御臣だけだけれど」
全ての代は同時にクスリと笑い、呪文の詠唱を始めた。
「――其は黒闇《こくやみ》の末路なり――」
途端に、偽者の代が全て弾けた。本物と全く同じように作られ、質量を持ったそれらの残骸は、瞬く間に軌道を変え、一斉に瞑葬――ではなく、咎詠に襲いかかる。本物の代は瞑葬の追撃を警戒し、軽く一跳びで御臣の傍らに着地した。
「それじゃあ、僕達は失礼するよ。またいずれ会おう、魔研の人形達」
御臣が代の手を取り、二人で何事か――恐らく瞬間移動の為の呪文の詠唱だろう――を呟いて、そして消えた。
「……っ!!」
瞑葬の聴覚を以ってすれば、追撃などたやすい事であった。只、次に二人が地面に降り立ったときの足音を追えば良い。だがしかし、瞑葬はそれをしなかった。
彼女は、咎詠の護衛を選んだのだ。
「随分となめた真似を……」
彼女は咎詠を代の置き土産から護るように刀を振るい、偽者の残骸を一つ残らず切り捨て、叩き落す。
べちゃり、と嫌な音を立てて、最後の一つが付近の民家の白い壁に張り付いたのと、咎詠が声と自由を取り戻したのは同時だったように瞑葬には思えた。
しかし実際は、若干咎詠が御臣の術を破った方が早かったらしく、一瞬彼女の呪文を詠唱する声がしたかと思えば、街並みは既に戦闘の前の静けさを取り戻していた。
「奴の術を破るのに……、少し疲れてしまったようだ」
そう呟くや否や、咎詠はカクリと膝を曲げ、そのまま意識を失った。
倒れこむ彼女を瞑葬は刀を持っていない左の手で支え、自身も静かに座り込んだ。
「……お疲れ様」
瞑葬は刀を地面に置くと、空いた右手を第五元素に伸ばす。戦闘中も、それは何事も無いかのように、ただそこにじっと転がっているだけだったのだ。
そして、そこで気付く。
「まさか。政府の狙いは、これではなかったの……?」