本編

□落ちる裂傷
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 気が付けば、リシアは逃げ出していた。その恐怖に、その状況に。錯乱している、とすれ違う人は思っただろう。

「一体、こんな所で何をしてるんだ?というよりエンデ、軍学校辞めたのか」

 クロガネは、リシアの来ていた制服を指差して言った。はぁ、と鬱陶しい溜息を吐き、見下げた目で言った。

「少しは見込みのあるやつだと思ってたのに」

 リシアはうつむき、顔を手で覆って目を見開いた。

 無かったことにされている?
 あの日のことを?その後の葬儀のことも?

 いや、クロガネは初めから生きていたのかもしれない。もしかしたら、自分が殺したのは、また別のクロガネだったのかもしれない。

 馬鹿を言うな、とリシアはリシアに言った。
 俺が殺したのは、間違いなく。

 クロガネ・ニグレードだ。

「クロガネ・ニグレード第三分隊長。少々よろしいでしょうか」

 作業を再開していた兵の一人が言った。クロガネは視線をそちらに移し、明瞭に応える。
 耐えられなくなったのは、そこからだ。

 何もかも忘れ、無我夢中で走り出した。流れ行く人は非常にゆっくりであり、色もなく、時が止まっているようだった。

 リシアだけが、逃げている。

 呼吸が荒くなり、手も振れず、もがくような動きになる。
 理解出来ない。思考が晴れない。
 目の前が霞む。見定められない。

 あり得るわけがない!死んだ人間が生き返るなんて!!

 断末魔のように叫ぶ。聞くものが居ないのだけが、幸いであろう。耳を塞ぎたくなるようなその声は、リシア自身も塞いだ。

 色のない世界は、次第に黒に包まれていく。とうとうリシアは建物すらもなく、ただ虚空の闇の中を駆け出す。
 ここがどこなのかも分からない。混乱も収まらない。ただ、耳元でクスクスと人を嘲笑うするような声が聞こえる。

 なぁ!いつもの言葉はどうしたんだ!!俺を殺していた口はどこへいったんだ!!!

 虚空へ手を伸ばすと、何かが掴めた。それを引き寄せると、それはいつもの顔の崩れた人型のなにかだ。その口は、動くことはない。

『何で帰ってきたの?あなただけ』

 後ろからそう、身近に聞き覚えのある声がした。自分と似た声だ。振り返ろうとした。

 振り返りたかった。答えを教えてほしかった。その言葉の主から。

 暗闇が、リシアを背から突き飛ばす。

 リシアは飛ばされながら、その後方に手を伸ばす。

 その手は、その髪色は。

 リシアは水飛沫を浴びる。何も見えなかった暗闇が、少しは見える青い闇になる。伸ばした手は、夜闇の中で一人ぼっちの女神の虚像を掴んだ。
 口から大きな気泡が溢れだす。代わりに液体が流入する。

 あぁ、アルバさん。やっぱり呼吸が出来ないのは涙の信託者(オルクル)でも苦しいじゃないか。

 リシアは、ニヒルに笑いながらそう思う。

 いっそこのまま、どこまでも沈んでいこうか。
 そうすれば、リシアが殺した事実も、罪に苛まれた日々も、全てなくなるのではないだろうか。

 リシアは、目を閉じて、見えない片目に触れながら最後の息を吐く。

 落ちていくんだ。

執筆日 2016年3月31日
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